2015/07/22

【学問のミカタ】あなたの海と、私の海と。

7月の共通テーマは、海。

今回は「文化人類学」担当、東京生まれ育ちの深山直子がお届けします。

 つい先日、関東地方は梅雨明けをした模様です、夏本番、ついに到来ですね!昨日の「海の日」はお天気に恵まれたので、海に出かけたという人もいらっしゃるのではないでしょうか。かくいう私も、暑い暑いと言いながら夏の海は大好きです。

 私が文化人類学者として調査研究を行っている地域の一つに、沖縄があります。普段はもちろん大学にいなくてはなりませんから、おのずと学生の夏季休暇中に、調査のため沖縄を訪れることが多くなります。羽田から飛び立った飛行機が沖縄上空に辿り着き下降し始めると、太陽に照らされた白い砂浜、エメラルドグリーンと真っ青のツートーンからなる海が目に飛び込んできます。何度繰り返しても飽きることのなく、胸が高鳴る瞬間です。


▲石垣島の丘から海を眺める住民。かれらのみている海と私のみている海は、同じかな?(撮影者:深山)

 文化人類学の調査というのは、必ずしもスムーズに進むわけではなく、むしろ無駄足や無為に過ぎる時間が多い方がふつうですが、そんなときでも沖縄ならば、浜辺を散歩したり水平線を眺めたりして心を落ち着けることができます。そこでつくづく、美しい海がすぐそこにある地元住民のみなさんを羨ましく思ってきました。

 これまで沖縄を対象としていくつかのテーマに関心を持ってきましたが、最近では石垣島を拠点に、サンゴ礁(サンゴがつくりだした海と陸にまたがる地形)と地元住民の暮らしの関係性を明らかにすることを目的とした調査に参加しました。いろいろな住民にお話を聞くなかで、これまで少なくとも沖縄では当たり前だと思っていた、「身近な海」「美しい海」という捉え方が、実は当たり前ではないのかもしれない、と気付くようになりました。

 例えば、先祖代々石垣島に住んでいらっしゃる女性は、子供のころ基本的に「海には入ってはいけない」と言われて育ち、内緒で友だちと泳ぎに行った際には、親にたいそう叱られたそうです。特に、法事やハーリー(爬龍船競漕大会/海神祭)の後に海に入ることは、「死んだ人がさらいにくる」からと、強く禁じられたと言います。似たような話は、沖縄の別の地域でも聞いたことがありますし、また海の近くに住んでいながら、海水に浸かるという経験がほとんどないという人にもしばしば会います。かれらは共通して、海に対して畏怖の感情を持っているようです。この背景には、沖縄に広く伝わる、海の向こうには神がすまう「ニライ・カナイ」という他界があるという思想、さらに死者の魂が向かう「グショー」という他界があるという思想の存在が指摘できそうです。

 あるいは、沖縄本島の糸満という、伝統的に漁業が盛んな地域の出身者を祖先にもつ男性は、石垣島での漁業について説明する際に、サンゴが外海に続く航路をいかに阻み、それを除去することにどれだけ苦労したかという話を、熱心に聞かせてくれました。そして、かつてはサンゴ豊かな海が美しいなどと思ったことはなかったが、近年になってよそから訪れる人たちが盛んにそう言うので、そういうものかなと考えるようになった、と教えてくれました。海を生業の場とする住民にとって、海は愛でる対象ではなく、さらに私たちには最大の特長に映る海中のサンゴを厄介に感じることもあるという話は、なかなかに衝撃的でした。

 もちろん、石垣島をはじめとする沖縄にも、海辺に頻繁に足を運んだり、その美しさに日々心洗われたりする住民の方も大勢いらっしゃるでしょう。しかしながら、海はかれらにとって、日常の景観の一部をなしているがゆえに、多様な意味を持つ空間になっています。したがって、上記のお二人のように、あるひとびとの目に海は、「身近な海」「美しい海」とは映らないのです。

 あなたの海は、私の海とは異なるかもしれない。私の持っている「海」観は当たり前でもなんでもなく、無数ある内のひとつに過ぎない。このような考え方は文化人類学において、コミュニケーション、とりわけ異文化間のコミュニケーションの際に、重要な前提として位置付けられています。

 みなさん、どうぞ素敵な夏をお送りください!

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