2015/12/09

「場所の記憶と生きること」をめぐるノート

さて、前回のポストから2週間が経ちました。小金井アートスポットシャトー2Fを訪問した際の様子についてはここでお知らせしましたが、今回はその第2ラウンドの紹介です。

小金井で宮下さんからお話を伺ったあと、授業では自分が生活してきた空間/地域を自分や友人たちがいかに使ってきたのか、もしくはド・セルトー風に言えば流用(appropriate)してきたのかを、実際に画用紙におこしながら議論を続けてきました。この形式での実習はチャレンジングかなという不安もあったのですが、これほど学生に自分から嬉々として話してもらったという経験は初めてでした。実際には、この課題に取り組む過程で話される一つ一つのエピソードは、誰もが経験したようなテーマです。「子どもの頃遊んでいた場所」、「子どもには立ち寄り難い場所」、「家庭空間の変化」、「街並みの変容」といったように。けれども、その個々には素朴なエピソードのなかに、私たちが日々を過ごすうえで重要な気づきが含まれていました。


写真 1 福生の記憶を書き込む
写真 2 学生の発表の様子
今回は宮下さんに東経大に来て頂きました。まず、前回の論点に加えて、具体的には香港の九龍地区の集合住宅などを事例として紹介しながら、「空間の共有」という可能性を検討しました。その後、受講生が作成してきた「公/私」を軸とした空間感覚の変容が描かれた地図や間取り図に、トレーシングペーパーを使って、新たな情報を書き加えていきます(写真 1)。この過程からは、場所を通じて共有された記憶が、個人の私的な記憶に強い影響力を及ぼしていたことが分かります。例えば、福生の異なる地域で子供時代を過ごした2人の制作物とプレゼンテーションからは、米軍基地という巨大な公的空間を記憶として共有しながらも、基地からすれば些細な地理上の変化が、同じ空間に対する認識のズレを生じさせたことが分かりました。
また、残念ながら時間オーバーで最後まで発表できませんでしたが、「視覚的」に場所の記憶を書き込んでいくことで、次第に「聴覚的」な場所の記憶を取り戻す学生もいました。つまり、京王線沿いで育ったことで、彼女が街を生きる経験と電車の通過音は切り離せなくなっていたにもかかわらず、ある時期から路線が地下に潜り電車の音が消えたことで眠れなくなったと。つまり、音を通じて街の変容を感じる、サウンド・スケープ的な観点からも興味深い物語が披露されました。

この授業の後半戦では、もう一つの文化施設のサポートを受けながら授業を進めますが、この感覚が小金井の良さのような気がします。もちろん、こういった発表を促したのは、宮下さんの経験や魅力に負うところが大きいのですが、一方でアートフル・アクションというNPOであり、シャトーという場が小金井を生きるスケール感を維持しているからこそ、上述のような観点で地域と向き合えるのだろうと。この数年、特に文化や芸術は地域振興の重要なコンテンツとして議論されることが多かったのですが、そこに決定的に欠けていたのは、「日々を生きる」ことそのものなのだという点を改めて認識させられるものでした。

2015年度II期「データ調査/分析ワークショップ」は、東京経済大学の「進一層トライアル」に採用された教育プログラムです。


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